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目 次
  1、はじめに   2、沿革   3、沿線  4、施設  5、運転  6、車輌


 スタジオOWADAのローカル私鉄めぐり
    南淡路電気鉄道株式会社                  南淡電鉄社紋

1、はじめに
 瀬戸内海の東の端、大阪湾との間に挟まれた所に位置する淡路島。その淡路島に日本で唯一、島の鉄道としての“南淡路電気鉄道”が存在する。
 面積 592.93km2の淡路島は瀬戸内海最大、わが国の数ある島の中でも沖縄本島・佐渡ヶ島・奄美大島・対馬に次ぐ大きさであるが、淡路島よりも大きい前記の4島にも地方鉄道は存在せず、その意味からも南淡路電気鉄道(以下南淡電鉄と記す)は特異な存在と言う事ができよう。

 淡路島の鉄道については、“淡路交通”時代に何度か某鉄道雑誌で紹介されているが、南淡電鉄になってからは、あまり話題に上がっていない様である。そこで、ここでは南淡電鉄の現状を、淡路交通時代からの歴史も含め、紹介することとする。
2、沿 革
 島の鉄道の歴史は、南淡電鉄の前身であり現在も島内のバス路線を一手に引き受ける淡路交通が、明44(1911).12に洲本−福良間に地方鉄道敷設免許を申請したのにはじまる。この免許は大1(1912).10に下付されたので、大3.4設立総会を開き、ここに“淡路鉄道株式会社”が設立された。
 その夏、広田八幡神社で起工式を行い、『洲本口』(のちの宇山)から工事が始められた。途中第1次世界大戦(大3〜7)による工事中断もあり、予定より1年遅れて大11(1922).11.26、洲本口−市村間で蒸気鉄道による営業を開始した。
その後、株式の増資を行い、路線の延長工事に着手。大12.11.22に市村−賀集間が、大14.5.1に洲本−洲本口(宇山)間が、更に同年6.1に賀集−福良間が開通し、念願の洲本−福良間全線の開通を見ることができた。
 また、昭9.7には淡路自動車鰍買収、淡路バスとして自動車輸送にも進出している。 これより先、昭3.9に車輌工場を『宇山』に設置。昭6にはガソリンカーの優位性に着目し、同年10月気動車3輌を購入、翌昭7.5より気動車の運転を開始、以後順次気動車の増備を行っていった。
 昭13.4.1福良町海面埋立てにより、新線約300mを延長、営業キロは23.4kmとなった。 昭15年には戦時下におけるガソリン統制により、木炭コーライト兼用の代燃車が主力となり、戦時輸送を担当した。その後、第2次世界大戦の進展に伴い国家の要請もあり、昭18.1全淡自動車鰍ニの合併契約書に調印し、同年7月に社名を“淡路交通株式会社”と変更した。当時の勢力は機関車4輌、内燃動車6輌、客車11輌、貨車18輌であった。

 戦後は終戦による混乱と買い出し客などの為に輸送力不足が目立ち、代燃車の故障、石炭の量的不足と質の低下などにより、乗車制限等が行われた様である。
 そこで昭21.8にはこの事態を打開すべく、鉄道線の電化を決定した。同年11月に電化工事施工認可を得たので、工事に着手。昭23.2.11電化工事の完成とともに、電車運転を開始した。また、昭27.7社内の合理化と共に、保安方式をタブレットから単線自動閉塞に改め、昭29.9実施のダイヤ改正では運転間隔を、従来の60分ヘッドから30分ヘッドに短縮している。
 ところが昭30年代中頃になると国道28号線の整備が進み、バス路線の充実が図られ、バスそのものにも近代的な車両が順次投入されていった。このことは鉄道にとって不利な結果をもたらし、経営的に見ても洲本−福良間では完全な二重投資であり、鉄道線においては再三にわたって合理化を行い、経費の節減を図っても赤字を解消できる見込みもないことから、鉄道線の廃止問題が浮上して来るようになった。
 淡路交通では廃止問題について地元自治体と再三協議に臨んだが、自治体側としては老人や子供にはステップの高いバスは不向きである事などから鉄道の廃止には反対、また地元住民からも、日本で唯一の貴重な島の鉄道を残して欲しいという声が多数寄せられた。
 そんな折しも昭40.9.10台風23号がこの地を襲い、更に9.16集中豪雨の追い討ちを受け、線路は各地で寸断された。この時あわや廃止か?とも思われたが、全社員が総力をあげて復旧に努めた結果、同年10月に運転が再開された。
 その後、地元自治体では廃止問題対策協議会を設立、淡路交通側と協議を重ねた結果、淡路交通、地元1市4町及び地元大手タイルメーカー、大手家電メーカー、大手繊維メーカー等の共同出資による新会社を設立することで合意に達し、昭41.10.1社名を現在の“南淡路電気鉄道株式会社”改め、島の鉄道は新たなスタートを切った。いわばこれが今で言う第3セクターのはしりになるのであろうが、当時としては“3セク”などというハイカラな言葉もなく、何もかもが試行錯誤の連続だったようである。なお、当時の勢力は電動車10輌、制御車2輌、事業用車1輌、貨車3輌の陣容であった。

 再出発するにあたって『寺町』を『洲本川』に、『自凝島(おのころじま)』を『榎列(えなみ)』に、『市村』を『市』に『御陵東』をバス停と同じ『御陵前』にそれぞれ駅名変更している。また、収益拡大を図るために、神代−賀集間に『国街』を設け、国街−阿万西町間及び掃守−湊間に新線を建設することとし、昭41.11敷設免許の申請を行った。この免許が翌42.2に認可となったので、さっそく工事に着手、昭44.10.1に掃守−湊間が、46.3.10には国街−阿万西町間がそれぞれ開通している。なお、この2線の開通により、従来の洲本−福良間を『本線』、国街−阿万西町間を『阿万線』、掃守−湊間を『西淡線』としている。
 また、新線開業にあわせて、国鉄よりの旧型国電4輌を含む8輌の電車を順次購入している。車庫についても宇山車庫が手狭になってきたのと、車輌の運用効率の関係から市に移転している。なお、宇山車庫の跡地は淡路交通がバスの車庫として使用している。 自治体等の宣伝効果もあり当初好調だった乗客の利用率も、昭和50年代になるとしだいに伸び悩みの兆しが表れ、これに2度の石油ショックが拍車をかける格好となり、経済的にも苦しい時期が続いた。しかし石油ショックが起こったことにより、再び鉄道を見直そうという機運が世間に広がってきた。
 そこで南淡電鉄では、この機運に乗じて利用者の拡大を図るべく、昭56.6ダイヤ改正を実施。データイムに毎時1本の割合で急行を走らせることとした。また、ラッシュ時にも列車の増発や車輌の増結等も行うこととし、これにあわせて自社発注分を含む5輌の車輌増備を行っている。

 その後、50年代後半になると一時凍結されていた本四連絡道路の工事が再開され、南淡電鉄の沿線でも工事が本格化し、特に広田−掃守間では道路と併走するため、周りの景色が以前と一変している。
 そして、昭60.6.8島民悲願の大鳴門橋が開通する。これにあわせて淡路交通と徳島バスが相互乗入れを開始、津名・洲本からの直行便の他に、南淡電鉄の急行列車に接続する形で、福良からも徳島方面へのバスが運行されることになった。
 一方島内では、大鳴門橋開通の前後半年に渡って“くにうみの祭典”なる催しが行われた。この期間、物珍しさと京阪神から近いという事も手伝って、島内は架橋フィーバーに湧いた。南淡電鉄でも観光客輸送の一躍を担い、特に本線筋では渋滞する国道のマイカー族を尻目に、満員の乗客を乗せた電車が快走するという光景がしばしば見られた。 しかし、祭典が終わると人々の興味はしだいに薄れて行き、昭63には瀬戸大橋が開通。今度は備讃地区が架橋フィーバーに湧くことになり、淡路は再び以前の落ち着きを取り戻すようになった。一時期持ち直したかに見えた鉄道利用者も、その後の道路整備により今では減少傾向にあるようである。
 平6.9には泉州沖に関西国際空港が開港し、津名・洲本からの高速艇が関空へ寄港するようになった。それにあわせて、洲本市と淡路交通では現在洲本発着の主要バス路線を洲本港発着とするべく道路や港湾施設を整備中で、これが完成すると洲本港での利用客の大半がバスに移行するのではないかと言われている。

 なお、淡路島北部及び阪神地区に未曾有の被害をもたらした、先の阪神・淡路大震災では、幸いにも路線が淡路島南部にあったために、一部車輌の脱線、ホーム上屋の一部損壊等あったものの、全体的に見て軽微な被害で済んでいるようである。
 平8.4.1時点での車輌数は電動車21輌、制御車10輌、事業用車1輌、電気機関車1輌、貨車3輌である。
3、沿 線
3-1、本線
 本線の始発駅である洲本は淡路交通バスとの接続駅で、駅の横のバスターミナルからは島内各方面に向けて路線バスがひっきりなしに発着している。なお、前述の通り淡路交通では洲本発着のバス路線の大半を洲本港発着とするべく、現在準備を進めている最中である。
 洲本を出た電車は鐘紡洲本工場脇の堀と道路に挟まれた間を走り、土手を駆け上がり、洲本川(旧寺町)に到着する。この駅は洲本川の土手の上にあり、近年駅の向かいに近代的な消防署が立てられた。
 洲本川を出るとすぐに洲本川橋梁を渡る。この橋梁は当鉄道中最長で、全長94.488mある。川の対岸には国道の踏切があり、この踏切を渡り土手を下ると宇山に到着。この駅の脇には、旧の鉄道車庫跡を利用した淡路交通のバス車庫があり、いすずキュービックバスがところ狭しと並んでいる。
 宇山を出た電車は国道の北側を国道とほぼ並走する形で走る。次の下加茂は、県立淡路病院の最寄り駅、先山は同名の山の麓に位置している。この先山はその形から、別名淡路富士と呼ばれている。標高は448mである。二本松は大手家電メーカーの三洋電機(株)ソフトエナジー(事)の裏手にある。二本松と納の間には本四連絡道路の洲本インターがあり、電車はそのインターチェンジの道路の下をくぐる形で通過する。

 広田を出た電車は国道と別れ、本四道路と並走する。この広田−長田間は比較的平野部が多い南淡電鉄の路線の中で唯一山間部を走る区間で、上り、下り共に25‰の連続勾配が続く。駅間もこの間が一番長く、3.4kmある。なお、本四連絡道路の緑パーキングエリアは、この間を力走する電車を俯瞰撮影するのにもってこいの場所である。
 長田を出た電車は左右に大きくカーブ、本四道路の高架下をくぐって西淡線の分岐駅、掃守に到着する。ここから線路は南に向きを変える。三原川を渡り、再び本四道路の高架下をくぐって、三原平野の田畑の中をのんびり走る。なお、この地方は三毛作の盛んな地域で、夏は稲作、秋は白菜、冬は玉ねぎと四季折々の風情を楽しむことができる。
 平野部を榎列、一本松と進んだ電車は右に大きくカーブし、向きを再び南西に向け、車庫のある市に着く。この市は市街地の外れに駅があり、駅前からバスの停留所のある国道筋までは商店街で結ばれている。車庫は駅の北側の隣接した場所にあり、駅のホームから車庫に屯する車輌たちが良く見える。

 市を出た電車は再び耕作地帯を走り、国道の踏切を渡ったところで阿万線との分岐駅である国街に到着する。この国街は道路の分岐点でもあり、駅前からは阿万・灘方面に向けて淡路交通バスも発着している。
 この先、電車は諭鶴羽山系(島内最高峰で標高608.3m)を左手にみながら、賀集、御陵前(旧御陵東)と進んでいく。この御陵前は駅の南側に駅名のいわれとなった淳仁天皇陵があり、駅のホームからもこんもりとした円墳の森を見る事ができる。また、駅の裏手には自動車教習所も隣接してある。なお、国道を挟んだ向いに、大手スーパーによるショッピングセンターの建設が予定されており、現在造成中である。南淡電鉄でも買物客の利便を図るために、ショッピングセンター完成の折には、急行の御陵前への臨時停車も考えている様である。
 御陵前を出た電車は国道に寄り添う形で並走し、25‰勾配を駆け上がる。ここの勾配は広田−長田間と並ぶ当鉄道最急勾配である。坂を上がるにしたがって段々と道路の方が高くなり、峠のサミット辺りでは道路が線路の上にかぶさってきて、鉄道が道路の下を走る形となる。この部分は以前は切り通しだったものが、道路の拡幅工事で線路の上までせり出して来たもので、ここのトンネル(地下道?)もコンクリート製の近代的なものである。

 この当鉄道唯一のトンネルを出た電車は、国道バイパスと並走しながら緩やかな下り勾配を下り、終着の福良に到着する。この福良も洲本と同じく、駅の横にバスのターミナルがあり、洲本、鳴門、西淡方面へのバスが発着している。また、駅の北側からはうず潮で有名な鳴門観潮の観潮船が就航している。なお、以前は駅の裏手はすぐ港の岸壁であったが、数年前に福良湾の埋立て工事が行われ、駅から海までの距離が遠くなっている。この埋め立て地は今のところ土砂を入れただけの空地になっており、夏祭りの時などは打ち上げ花火を見物したり、コンサートを開いたりするイベント広場となっている様である。
3-2、阿万線
 阿万線は国街と阿万西町を結ぶ延長7.2kmの路線である。始発駅の国街は阿万線と共に南淡電鉄になってから造られた駅である。駅は国道とそれに交差する県道との間に位置している。なお、阿万線の線路は福良側に開いているが、線路配置の関係上洲本側からは進入することが出来ず、本線から阿万線への入線は必ず国街でスイッチバックする形となる。
 国街を出た電車は、大きく左へカーブを切りながら県道の踏切を渡る。この県道の踏切は、すぐ北側に本線の踏切もある珍しい二重踏切となっている。
 阿万線はほぼ全線に渡って、南淡町の稲作地帯を県道と並行に走るため、車窓的に変化の少ない路線ではある。なお、途中の筒井は南淡(統合)中学へのスクールバスの接続駅、伊賀野は淡路に本拠地を置くタイルメーカー、淡淘(株)淡路阿万工場の最寄り駅である。
終着の阿万西町は線路が堤防に突き当たったところにあり、堤防の向う側はすぐに海である。なお、灘方面や国立淡路青年の家へのバス連絡は、一つ手前の阿万下町で行われている。
3-3、西淡線
 西淡線は掃守と西淡町の中心地、湊とを結ぶ路線で、阿万線同様南淡電鉄になって建設された路線である。掃守を出た電車は本線とは逆に左にカーブを切り、やはり県道と並行に湊へ向かう。この西淡線は途中に脇田、松帆の2駅を有するのみの短い路線であるが、列車は朝ラッシュ時を除き、大半が本線市まで乗り入れている。
 終着の湊は市街地からは若干離れた場所にあり、淡路交通のバスの展回場脇に設けられている。

4、施 設
 軌間は1067mm、全線単線で、電気方式はDC600V、変電所は淡路交通時代に設置された宇山及び市変電所に加え、新線開業に伴って筒井変電所の新設を行い、淡路交通時代に廃止となった掃守変電所を復活させている。車庫と車輌工場は市にあり、宇山と福良に電留線を有している。
 軌条は本線・支線の大半が30kgで、支線の一部と駅の側線に20kgレールを使用している。また、半径400m以下のカーブの外側に37〜40kgが使用されている。
 トンネルは福良−御陵前間に1ヶ所、橋梁は36ヶ所あり、最長は洲本川橋梁の94.488mである。最小曲線半径は本線では201.17mで沿線随所(13ヶ所)にあり、支線では 102.26mで掃守を出たところにある。最急勾配は25‰で、本線広田−長田間と御陵前−福良間にある。

 保安設備は単線自動閉塞方式であるが、CTC化及びATS等は未だ導入されていない。踏切は第一種が31ヶ所、第三種が18ヶ所、第四種が34ヶ所の計83ヶ所である。
 駅は本線18駅、支線9駅の計27駅で、うち交換可能な14駅が停車場、残り13駅が停留場となっている。駅員配置駅は本線急行停車駅と洲本・福良・湊・阿万西町の9駅で、交換可能な残りの5駅と阿万下町が業務委託駅、その他が無人駅となっている。
5、運 転
5-1、本線
 本線では上り下りとも56本の計112本の列車が運転されている。運転間隔は昼間が30分ヘッド、夕ラッシュ時が20分ヘッド、早朝夜間が1時間ヘッドで、朝ラッシュ時には時間当たり6本(内2本は洲本−広田間の区間列車)の列車が設定されている。なお、朝ラッシュ時は単線のため等間隔ではなく、福良から洲本行きの列車密度が高くなるように組まれている。
 この他、9時台から16時台にかけて毎時1本、急行列車が運行されている。急行の途中停車駅は宇山・広田・掃守・市・国街の5駅である。
 なお、本線については平日ダイヤと休日ダイヤが設定されており、休日ダイヤは朝ラッシュ時が20分ヘッドで、後は終日30分ヘッドとなっている。また、昼間時の一部列車(単行)と早朝夜間にはワンマン運転が実施されている。
 昼間時の列車交換は広田、掃守、市、国街で行われ、ラッシュ時は他の交換可能駅をすべて利用している。逆に1時間ヘッド時は掃守のみの交換となっている。また、急行同士は市で交換している。

 所要時間は普通が上下とも標準で46分、早朝夜間の対向の少ないもので41分、ラッシュ時の交換の多いもので52分となっている。急行列車の所要時間は上下とも34分である。 なお、参考までに淡路交通バスの所要時間を載せておくと、特急バスで福良−宇山間36分、普通バスで福良−洲本間45分である。運転間隔は特急バスで1時間〜30分ヘッド(時間帯によって違う)、普通バスで30分ヘッド、その他に福良−洲本間普通タイプの急行バスが1時間ヘッドで走っている。

 編成輌数は2連が基本で、ラッシュ時には増結が行われ、3輌編成も走る。逆に閑散時は単行運転もある。早朝深夜は単行が基本である。急行運転のないラッシュ時は、急行用車輌も各停運用に入り、主に洲本−広田間の区間列車に充当されている。
なお、ホーム有効長及び洲本川橋梁の橋脚強度の関係上、17m級×3連は組成出来ない。また、接触限界が淡路交通時代から改善されていないので、17m級以上の車輌の入線は不可能である。
5-2、支線系
 支線系では朝ラッシュ時を除き、阿万線、西淡線ともに同じようなダイヤが組まれている。運転間隔は昼間が40分ヘッド、夕ラッシュ時が30分ヘッドで、早朝夜間が1時間ヘッドとなっている。朝ラッシュ時は阿万線が20分ヘッド、西淡線は15分ヘッドである。運転本数は阿万線が上り31本、下り30本の計61本、西淡線が上下各33本の計66本である。 両線とも休日ダイヤでは、朝ラッシュ時が30分ヘッド、以後終日40分ヘッドとなる。やはり昼間時と早朝夜間の単行を中心にワンマン運転が実施されている。
 全列車各駅停車で、阿万線では大半が線内運用。西淡線は朝ラッシュ時を除き、大半の列車が市発着となっている。(ラッシュ時は本線に許容量がないので、乗り入れ出来ない。)ほかに阿万線では朝ラッシュ前後に1.5往復、夕ラッシュ前後に1往復、福良からの直通列車があるが、これは列車の回送を兼ねたものと思われる。

 列車交換は阿万線では閑散時は筒井で、ラッシュ時は筒井と終着の阿万西町で行われている。西淡線では閑散時、本線の一本松で、ラッシュ時はそれに加えて松帆でも交換が行われる。所要時間は阿万線が標準で16分、西淡線が標準で18分となっている。編成輌数は両線ともラッシュ時2連、閑散時単行が基本である。
 やはり支線系においても車輌の入線制限があり、阿万線では国街を出てすぐの、西淡線では掃守を出てすぐのカーブがネックとなり、15m以下級しか入線出来ない。その為、支線系では淡路交通からの引継車が重点的に使用されている。

6、車 輌
 南淡電鉄の車輌は大別して淡路交通時代からの引継車と、南淡電鉄になってからの増備車とに別けることが出来る。淡路交通からの引継車は未だに全車健在であるが、車齢が70年におよぶものばかりで、車体更新は行われているものの、老朽化は否めない。大半が支線運用に当てられている。
 一方南淡電鉄になってからの増備車は、旧形国電や自社発注のカルダン車等、16〜7mクラスの比較的大型のものが多い。それでも車齢が40〜50年のものが大半を占める。

 形態的にはダブルルーフの“たまご電車”から、ノーシル・ノーヘッダー、張り上げ屋根のカルダン車まで多種多様、その約半数が1形式1輌といった車輌ばかりである。しかし、編成自体はMc−Mcないしは、Mc−Tcの2輌編成が基本で、固定編成も何輌か存在する。
 従って車輌の解説についても、形式ごとに解説すると逆に判りにくいと思われるので、ここでは編成単位で解説することとする。また、本来なら、急行用車輌から解説してゆくべきものであろうが、後述するとおり車輌番号が支線用車輌の淡路交通引継車から付番されているので、まず最初に支線運用車について述べることとする。

 編成の組み方については一定の法則があり、制御車は必ず洲本側に連結されるように定められている。従ってクハは全車洲本向きである。逆にモハは全車福良向きで、一部の例外を除き、福良側にパンタを有している。また、2編成を除き連結面は貫通化されている。
 なお、南淡電鉄における車輌番号の付番の方法は、淡路交通時代のそれを踏襲している。すなわち、形式は他社からの譲受車を1000形、自社発注の気動車改造車を2000形、クハを110形とし、末尾はモハ・クハそれぞれ増備順に追番としている(一部に例外あり)。また、事業用車は500形となっている。

 車体色は地方私鉄としては珍しく本線用と支線用の車輌とで塗り別けが行われており、本線用が窓より上半分がクリーム、腰板部が水色、支線用が上半分クリームに下半分マルーンとなっている。なお、この塗色は南淡電鉄の前身、淡路交通の新旧塗装にあたる。 また、急行用車輌は幕板部に水色の帯が、3000形カルダン車では窓下にクリームの帯が、それぞれ識別の為に追加されている。
6-1、支線用車輌
・モハ1000形1002+クハ110形112
 モハ1002は淡路交通が電化に際して南海電鉄からデホ31を譲受したもので、元を正せば明42、東京天野工場製の南海鉄道、電2形105である。当時南海に多数存在した、いわゆる“たまご電車”と称される流線形正面5枚窓、ダブルルーフの木造車であった。
 淡路交通時代の昭29.12付で台枠を除いて解体し、1段下降窓の半鋼製車体に改造されている。当初は正面非貫通2枚窓であったが、昭33.9付でドアエンジン取付と共に貫通化改造を受けている。側面窓配置はd2D9D2dで、何んとなく南海1201形の戦後タイプに似た側面をしている。
 要目は最大寸法15,990×2,520×4,176mm、定員100(座席64)名、自重29.2t、主電動機出力85kW×4、台車はTR-14をはき、パンタは横形碍子の三菱の南海タイプをつんでいる。

 クハ112は、淡路交通が自社発注気動車のキハニ4を、昭27.6付で制御車化改造したもの。キハニ4は昭8.5、日本車輌製で、モハ2009となったキハニ3と同形の気動車である。前面は非貫通2枚窓であった。
 電車化に際しては、福良側運転台の撤去、客扉1枚を閉鎖等の改造も行っている。更に昭34.7付で車掌側乗務員扉の増設、妻面貫通化(前面、連結面とも)を行っている。窓配置はd1D612D2である。
 要目は最大寸法13,120×2,640×3,555mm、自重14.5t、定員100(座席40)名、台車は気動車用日車BB菱枠形をはいている。
 淡路交通時代に1002+112で編成を組んで以来、ずっとこの編成のままである。1002は一応両運であるが、めったにバラされることはない。支線用車輌で、阿万線運用車となっている。
・モハ1000形1003+モハ2000形2009
 モハ1003は先の1002と同じ車体・同じ経歴を持つ車輌で、元南海鉄道、電2形107である。淡路へ来る前はデホ32を名乗っていた。淡路へは先の1002と共に入線、1002が鋼体化された後も木造のままで活躍。昭34.6付で台枠、屋根を除いて解体し、側溝及び外板を鋼材によって組立てて半鋼製車体に改造、同時にドアエンジンが取り付けられた。この1003は鋼体化後もダブルルーフ、前面5枚窓と、木造時代の面影を充分に残している、骨董的車輌である。
 要目は最大寸法15,990×2,640×4,028nm,自重28.5t、定員90(座席50)名、主電動機出力75kW×4、台車はブリル27MCB2、パンタはTDK-Cタイプを積んでいる。

 モハ2009も先のクハ112と同形の気動車で、元は昭6.10日本車輌製の淡路交通キハニ3である。
 電車化は一番遅く、モハニ1001→クハ101(昭36.6付で廃車)化の際出てきた電動機を用いて、昭31.1付で電動車化された。気動車時代の台車を使用し、床下吊下げモーターによるシャフトドライブ方式という、すさまじい駆動方式の車輌であった。なお、この方式は性能的にも良くなかったのか、1003が出力強化後はモーターを外して、クハ代用として使用されている。
 電車化に併せて手荷物室を撤去、窓配置はd1D612D1dとなっている。なお、昭33.9にドアエンジンが取り付けられている。
 要目は最大寸法13,120×2,640×4,050mm、自重17.5t、定員90(座席40)名、台車は気動車用日車BB菱枠形をはいている。なお、当初パンタは1枚シューのTDK-Cタイプを積んでいたが、モーター撤去後はパンタも取り外されている。モーター撤去後の現在も正式なクハ化改造は行われず、形式もモハを名乗ったままである。
 やはり、淡路交通時代より1003+2009の編成をずっと組んでいる。なおこの編成は、当初阿万線運用車であったが、老朽化のため現在予備車扱いとなっており、定期運用からは外されている。
・モハニ2000形2006+クハ110形111
 モハニ・クハ共に同形の気動車の電車化改造車で、モハニがキハニ1、クハがキハニ2であった。共に昭6.10、淡路交通が川崎車輌に発注した車輌である。浅い屋根に平妻3枚窓と、同時に増備した日車製とは対照的に、角張った感じのする車輌であった。
 モハニ2006は、淡路交通における自社製気動車の電車化改造車のトップバッターとして改造工事を受けた栄えある(?)車輌である。竣工は昭23.12、駆動方式は先の2009と同じく、気動車台車使用による床下モーターのシャフトドライブであった。
 その後、昭30.8付で1002がはいていたブリル27GE1(1002はTR-14に交換)にはき換え、床下モーターを廃止した。また、クハと編成を組むべく片運転台化(洲本側運転台の撤去)を行っている。更に昭32.5付で洲本側連結面の貫通化を行い、クハ111と半固定編成を組むようになる。窓配置はdD2D6D2(反対側は1D2D6D2)で、当鉄道の車輌中唯一手荷物室を有している。
 要目は最大寸法12,840×2,600×4,060mm、自重18.3t、定員90(座席36)名、主電動機出力50PS×4、台車は先に述べた通りブリル27GE1、パンタは1枚シューのTDK-Cタイプを積んでいる。

 一方クハ111、はモハからは遅れること約4年の昭27.7付で、制御車化改造を受けている。なお、この時洲本側に連結して使用するため、福良側の運転台を撤去している。
 その後2006と編成を組むため、昭32.5付で方向転換を行い旧手荷物室扉を撤去(手荷物室はクハ化の際撤去されている。)、新しく連結面となった福良側妻面の貫通化と洲本側運転台の復活及び全室化、車掌側乗務員扉の新設を行い、窓配置はd12D6D2となった。
 要目は最大寸法12,840×2,600×3,500mm、自重13.0t、定員90(座席40)名、台車は気動車用日車BB菱枠形をはいている。
 この2輌は前述の通り、2006+111で半固定編成を組んでいる。支線用車輌で、西淡線運用車である。
・モハ2000形2007+2008
 形式が示す通り、やはり2007、2008共に淡路交通が増備した同形の気動車の電車化改造車で、2007がキハニ6、2008がキハニ5であった。共に日本車輌製でキハニ5が昭10.6付、キハニ6が昭12.4付で竣工している。それまでの4輌の気動車に比べ車長15mとやや大型になり、前面も半流タイプの非貫通2枚窓と、当時の日車標準形の車体をしていた。
 2007は昭23.12付で電動車に改造、当初はモハニであった。やはり床下モーターによるシャフトドライブ方式であったが、昭31.4付で駆動方式を直角カルダンに改め、更に昭33.9付で手荷物室を撤去、それに伴い荷物室扉も閉鎖している。また、車掌室側に乗務員室扉の新設、ドアエンジンの取付も行っている。昭37.8には前面貫通化改造も受けている。側面窓配置はd1D317D1dである。
 要目は最大寸法15,294×2,720×4,150mm、自重21.1t、定員100(座席42)名、主電動機出力63kW×2、台車は気動車用日車BB菱枠形、パンタは1枚シューのTDK-Cタイプである。

 モハ2008の方は2007よりも少し遅れて、昭25.8付で電動車化改造を行っている。電車化が遅れたのは、キハニ5をいったんサハニ1に改造、その後モハニにした為とのことであるが、サハニとしての竣工図などは見当らず、単にエンジンを取外してラッシュ時に電動車のお供をした程度のものであったのではないかと言われている。
 改造当初、台車は元1004(昭36.2付で廃車)に付いていたブリル77E2をはいていたが、その後昭29.5付で台車をTR-14改造のDT-10に、駆動方式を運輸省の昭28年度試験研究補助金の交付を受け、淡路交通で開発したかさ歯車使用による垂直軸カルダンに改造されている。昭30.4には駆動装置の性能向上と車輌振動防止の為、台車釣合バリのイコライザ止め、軸受のコロ軸化等の工事が行われている。
更に昭33.1付で荷物室を撤去、手荷物室扉の閉鎖、車掌側乗務員室扉の新設、前面の貫通化、ドアエンジン取付等の工事を完了させている。側面窓配置は先の2007と同じくd1D317D1dである。
 要目は最大寸法15,294×2,720×4,270mm、自重24.0t、定員100(座席40)名、主電動機出力75PS×4、台車は前述の通りDT-10をはき、パンタは1枚シューのTDK-Cタイプを積んでいる。
 この2輌は、淡路交通時代はモーター出力や特性が異なるとの理由から連結されることはなく、もっぱら単車で使用されたが、南淡電鉄になってからは同形車ということで制御器のノッチ合わせ等の改造を行い(昭45.5付で竣工)、2連を組むようになっている。この編成は後述する1012+1013と共に、2連時は阿万線運用、単行時は阿万線、西淡線の双方に入線する、阿万線・西淡線共通運用車である。
・モハ600形609+610
 淡路交通が阪神電鉄で廃車となった609,610の車体を譲受、自社工場で台車、部品のやりくりをして電装を施したもの。竣工は昭36.2である。当初はMc+Tcの2連にする予定だったが、途中で計画を変更、2輌ともモハとなったもので、車番は付番規定から行くと1012,1013となるのが本当であるが、車体の4ヶ所に切り抜き文字による車号が付いており、検討の結果、これを取外してまで改番する必要もないと言うこととなり、阪神時代と同車番に落ち着いたという経緯がある。
 阪神の601形は通称“喫茶店”の851・861形や881形などと共に昭和初期の阪神小型車グループの一核をなす車輌であった。609・610共に大13.8、藤永田造船製である。
 電装を施すに当たって、台車は609が元1002のはいていた加藤製ボールドウインを (1002はブリル27GE1→加藤製ボールドウイン→TR-14と台車を換えている。最初のブリル27GE1は、モハニ2006の台車振替に使用された。)、610はクハ101(600形の入線により昭36.6廃車。)のはいていたブリル27GE1を、それぞれ譲受している。なお、610においては南淡電鉄になってからの昭43.8に、再度2008がはいていたブリル 77E2(2008は前述の通りDT-10に変更)に台車振替を実施している。

 前面は流線形5枚窓、側面窓配置はD6D6Dである。
 要目は最大寸法は共に14,275×2,606×3,944mm、自重は609が20.5t、610が20.0t、定員は共に90(座席48)名、主電動機出力も共に53kW、台車は609が加藤製ボールドウイン、610がブリル77E2、パンタは共に1枚シューのTDK-Cタイプである。
 この2輌は半固定編成を組み、連結面側の連結器はトムリンソン密着連結器を装備している(編成端側は他車との連結を考慮して、柴田式下作用自動連結器。)。
 なお、淡路交通時代からずっと609+610の編成を組んでいるが、609のパンタグラフは洲本寄りにあり、福良側が基本の当鉄道において異端児車輌である。そのため、パンタが連結面に寄っている、接近パンタ編成となっている。支線用車輌で、西淡線運用車である。

 「南淡電鉄車輌めぐり」は、今のところここまでしかまとまっていません。現在引き続き、南淡電鉄設立後に増備された車輌の解説をまとめているところです。まとまり次第、このページに追加する予定ですので、今しばらくお待ち下さい。

南淡電鉄広報部広報課/スタジオOWADA

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